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奈良へ行きました 1 頭塔(ずとう) [歩く]

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昨日は日帰りで奈良を歩きました[グッド(上向き矢印)]

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今回は再建された平城京の見学が主目的ですが、まだ纏めることが出来ないので後回しにします[ふらふら]

今回はその他に、空海の若い頃の足跡を探ってみたのですが、そこで面白い情報が有ったので行ってみました[るんるん]

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空海(当時は「真魚」)がしばらく滞在していたと云われる佐伯院の場所(奈良市八軒町付近[exclamation&question])を訪ねました。現在の奈良市西木辻町辺りらしいのですが、発掘調査をしないとよく解らないです[ふらふら]

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周りをしばらく歩いてから、喫茶店に入りました。

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40年以上続いている喫茶店だそうです[喫茶店]
ここの店主に佐伯院のことを訊きましたが、知りませんでした[もうやだ~(悲しい顔)]

その代わりに玄坊の首塚の話しを聴きました[exclamation×2]

玄坊は奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏で、安斗阿加布の子、善珠の父とする史書もあり、空海との関係が有ると思われる僧です。

玄坊は藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、745年(天平17年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌746年(天平18年)任地で没したが、 彼の没落が、聖武天皇の母、藤原宮子や、その異母妹で聖武天皇の皇后、光明(藤原不比等の三女)との関係(道鏡の話との混同かも?)、藤原広嗣との関連(空中から手があらわれて玄昉を連れ去り、後日、頭のみが興福寺に落ちており、これが広嗣の霊のせいであったという話『元亨釈書』)で伝えられています。

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その首を祀ってある首塚は奈良市高畑町に有りました。

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入ります。

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じゃ〜ん[exclamation]

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 『東大寺要録』の記録では、奈良時代の僧、実忠(東大寺二月堂の十一面悔過会、通称お水取りを始めたとされる)が神護景雲元年(767)に良弁(東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当)の命で新薬師寺西に「土塔」を建てたとあります。そこでは「土塔」(どとう)と表記されていますが、一方で、平安時代の『七大寺巡礼私記』以来の、玄昉の首塚である、という伝承もあり、「どとう」が転訛して「ずとう」と称されるようになり、玄昉首塚説との関連で、「頭塔」という漢字が当てられたものと考えられます。

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平城遷都1300年イベント情報の 奈良大和路 秘宝・秘仏特別開帳にも載っていました[わーい(嬉しい顔)]

続きます。


タグ:奈良
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REI

うーん、大変。
頭塔って全くしりませんでした。 (大汗)
かなり立派な構築物ですねえ。
見かけは新しそうで、江戸時代にでも手入れされたのでしょうか。
発掘調査されているのなら、報告書が出てるのですね。
知っている物の方が少ないのですが、それにしてもこれだけの構築物を知らなかったのは・・。 是非見たいです!

by REI (2010-06-04 21:12) 

nmzk

> REIさん
発掘調査は奈良国立文化財研究所が担当して、1987〜98年まで9次にわたる調査を行いました。
復原整備は現状の頭塔を対象として、当初期のものは内部に保存、基壇と7段の石積を復原し、残存していた石積と、復原のために新たに積み足した石積との境界には鉛板を入れて明示しているそうです。
石仏の上の“新しい屋根瓦”は本来あったものではなく、石仏を直射日光や風雨から保護するためのものです(^_^;)

ここでは見えなかったのですが、頂上に在ります五輪塔は江戸時代に据えたものだそうです。

堺市の大野寺は神亀4(727)年に、行基によって創建された古刹ですが、元の境内に土を盛り上げて作った瓦葺きの土塔が在ります。
by nmzk (2010-06-04 21:59) 

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